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kousukeと学ぶ!倫理学(のようなもの)Part1

kousukeと学ぶ!倫理学(のようなもの)Part1

ハリマブログをご覧の皆さん、こんにちは!
齢ほどほどにして、学に目覚めつつあるkousukeです
今回は倫理学(のようなもの)をテーマにちょっと頭を使ってみたいと思います

 

本題へ

 

「大きな目的のために、小さな犠牲はやむ負えない」
映画とか、ドラマとか、小説とか、ゲームとかでよく悪者が口にすることが多いこのセリフ
こういったセリフが飛び出す状況はもういろいろ良くない状態が多いですが・・・

この考え方、みなさんはどう思うだろうか

良心に照らして考えると、良くない事というのが一般的な考え方なのではないだろうか

だが、このセリフが飛び出す状況を考えてみると、一概にそれは悪いことだとは言えない気もしてくる
そんな例を挙げて、考察してみる
想像してみてほしい

 

5人が線路上で動けない状態になっていて、そこにトロッコが向かってきている
あなたはポイントを切り替えて、トロッコを側線に引き込み5人を救うことができる
但しその場合、切り換えた側線上で1人がトロッコに轢かれてしまう
貴方には選択肢が2つある

 

A.なにもせず、5人を見殺しにする
B.ポイントを切り替えて、1人を犠牲にし、5人を救う

画像引用:トロッコ問題-wikipedia

多くの人は、Bの選択肢を取るのではないかと思う
大変残酷ではあるが、死ぬのは5人より1人のほうがましと考えてしまう
これが有名なトロッコ問題というやつだ

少し時系列を戻すが先の問題提起で「大きな目的のための小さな犠牲」そんな理屈は認めない!と思ったそこのあなた!
今もまだそう言い切れるだろうか

うん、言いたいことは分かる
先の質問の後にこの問題を出す私も大概性格が悪い
勘違いしてほしくないのだが、私は「大きな目的のための小さな犠牲、そんな理屈は認めない!」という意見を綺麗事だと論破したいわけではないのだ

例えばこのトロッコ問題、状況を変えればまた違う選択が正しいようにも見えてきたりする

 

あなたは線路の上にかかる橋の上にいて、トロッコが動けない5人の方へ転がっていくのを見ている
貴方の隣には見知らぬ人が立っている
トロッコを止めるには、隣の見知らぬ人を線路へ突き落としトロッコの進路を阻むしかない

この時にもあなたには選択肢が2つある

A.何もせず、5人を見殺しにする
B.隣の見知らぬ人を突き落として、トロッコを止め5人を救う

さて、どうだろう
先ほどは、躊躇なく1人の犠牲をやむ負えないと断じてBを選んだ人も、今回ばかりはBの選択肢が嫌悪されたのではないだろうか
トロッコを1人がいるほうへ向かわせることと、人をトロッコの前に突き落とすのはなにかが違うと直感的に感じる

この2つの事例の違いを言語化するなら、最初の質問では行為者の行動は「分岐の切り替え」に過ぎず、1人の死は行為者の意図した結果ではなく、副次的な出来事と考えることができるのに対して、2つ目の質問でははっきりと人を突き落としてトロッコを止めるという行動をとっている

つまり行為者の意図と行動によって死ぬということなのだ

何が言いたいのかというと
人は集団の中にあっては、最大多数の最大幸福を目標としたくなる(功利主義)
だがこと自分自身のこととなると、道徳的判断を尊重したくなるものだ(義務論)

ある状況では、犠牲も許されると考え、また状況が違えば許されないと考える
人間というモノについて考えるきっかけになった

私の個人的見解でいえば、この言葉はやはり間違っていると思う
誰かの犠牲がなければ、果たされぬ目的などロクなもんじゃないと思う
その犠牲は自分自身でも他者でも同じこと
そもそも、そのような差し迫った事態に巻き込まれないことを願いたいものだ

最後に私の大好きな漫画から名言を引用させていただいて、この記事を〆たいと思う
誰かの・・・或いは自らの犠牲をもって訴える理想など、それを自ら信じてないと暴露したに等しい愚行だ!

​​​​​​​

 

~後語り~

なんでこのテーマでブログを書こうかと思ったのかについて少しだけ書きます
自動運転車が実現しつつある今日、自動運転を担うAIの判断基準(衝突が避けられない状況になったときなどの判断基準)を、どう設計するべきなのかという議論が巻き起こっています

今回取り上げたトロッコ問題は、まさにAIの判断基準をどこに置くかという議論を提起しています
なかなかホットな話題で調べてみたら、面白いなと思い今回取り上げてみました

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